小糸川沿岸土地改良区の沿革

期成同盟会の発足

■昭和11年~昭和16年

本地区を流れる小糸川は河床が低く揚水もままならず
他の用水源に乏しく年々旱害(かんがい)を被りつつあった


昭和27年頃~ダム完成後の37年まで小糸川から10m以上も高い耕地へ水を揚げたとされる久保の揚水車

特に昭和2年、4年、8年、9年と相次ぐ旱魃(かんばつ)に農家の疲弊困憊が深刻な状態となってきた
小糸川流域の有志が集まり、用水源の確立のため抜本的改革を実施すべく話し合い
千葉県並びに農林省への陳情を重ね昭和12年には農林省にも諒解され基本調査が開始された

昭和13年に基本調査が完成し、県の指示により普通水利組合を結成することとなり
その推進母体として各町村に期成同盟会を組織し更に連合会を置くことで意見が一致し
直ちに規約、費用負担、役員等を決定した
従ってこの会が事実上の期成同盟連合会の結成を意味するものとなった

普通水利組合の設立

■昭和17年~昭和24年

昭和17年7月3日に君津郡小糸川沿岸普通水利組合の設立が許可され
9月には組合会議選挙(現在の総代会選挙)が行われている

三島村の溜池敷地(三島ダムの敷地)に関する買収交渉は当初から進められていたが
地元正木地区の強固な反対により遅遅として進んでいなかった

正木地区にはダムが完成しても恩恵が無く
ダム建設によって林産物搬出に支障をきたす (当時の主力産業である炭の搬出と思われる)
田畑が潰され、林道もなくなる等々が強固に反対する理由であった

県と正木地区の話し合いがまとまらず、噂が噂を呼び不穏な空気さえ流れるようになったため
久留里警察署の部長が打ち合わせに警備のため出席していたが、ますます空気が険悪となったため
署長が出席するようになった、双方の事情が判ってきた宇井署長が斡旋に乗り出し
署長の熱意に動かされた正木地区は建設反対から買収価格条件の闘争に代わって行った

昭和18年8月5日 当時の河村県知事を迎えて三島ダム起工式が挙行された

起工式の様子

昭和19年 戦争の激化に伴い築堤工事も遅遅として進まなかったが「戦時緊急食糧増産対策事業費」
の割り当てを受け大幹線水路及び2号幹線水路の一部の工事に着手したが終戦を迎え
工事も一旦中止となった
翌年以降は戦後の物資不足に窮しながらも工事は続けられた

土地改良区に組織変更

■昭和25年~

土地改良法の施行に伴い、当普通水利組合も土地改良区へ組織変更すべく
組合会議に上程されたが事業の遅延、経済の変動により簡単には可決されず継続審議となる
後日会議が再開し財政の再建と合理的運営を期するため、定款作成委員を選任する事で
満場一致で上程議案を可決した

昭和26年 青堀町の加入条件だった汐止め堰完成

昭和27年 県営事業に切り替えるための組合員の同意がようやく3分の2以上に達したので
「県営土地改良事業施行予備審査申請書」を千葉県知事に提出し、一方組織変更認可申請を
6月30日に提出し、7月31日付で君津郡小糸川沿岸土地改良区に組織変更することが認可された


建設中の三島ダム(昭和29年ごろ)

三島ダム完成

■昭和30年~

昭和30年 事業費5100万円の割り当てを得て、待望の三島ダムが完成し貯水を開始すると共に
大幹線水路及び第1号幹線水路の工事に着工した

昭和31年 第1号幹線水路が清和村粟倉地先まで完成し、繰上事業で施工した
第3号隧道及び第4号隧道の連結により小糸町鎌滝地先まで通水を開始した
一方完成した三島ダムは農林省、県、地元町村の関係者及び三島地区の関係者
を招き5月26日に満水式を行った

昭和31年 支線水路の工事に着手

昭和43年 昭和18年の着工以来、実に26年を費やした県営事業もようやく最終年度を迎えることとなった

総事業費も当初200万円であったが、経済の変動により10億3,231万6千円となり
今年は8,510万円で各幹線の補修等最終の仕上げを行った、支線については大佐和相野谷地区他を
1,800万円の予算で実施して県営事業の完了となった

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